俺と主人の出会い
俺は、大田鳩舎より、大変鳩好きな高校一年生の及川という少年に、卵でもらわれてきた。
その高校生は、中学の頃から俺の親の主人の鳩舎へ遊びにきていたらしく、大変親しそうに話していた。
どうやら俺の話しらしい・・・・・・・。
俺の親は、大田鳩舎で最も期待されている血統らしく、大事に飛ばすように言われていた。
昭和40年4月12日、俺は、妹と共に生まれた。俺の第二の主人であるその高校生は、大変大事に俺を育ててくれ、朝は早くから起こされ、夕方は学校から急いで帰ってくるらしく、毎日決まった時間に餌がもらえた。餌の前に、主人が必ず俺をさわるのには少々迷惑した。
それから1ヶ月程たち、俺は親から離され、レース鳩として選手鳩鳩舎という別の鳩舎に入れられた。
二、三日するうちに友達もでき、一人で結構餌も食べられるようになった。
妹の失踪
始めは、トラップ訓練が行われ、一週間くらいすると、主人は俺と妹を鳩舎の上に置いた。そこは大変見晴らしが良く、俺達は生まれて始めて見る外の景色にただ驚きと珍しさのあまり無性に飛びたくなった。
その時、バーンという音に俺達はビックリして飛びあがってしまった。気がついてみると、鳩舎はもうはるか遠くに見え、無限に広い大空を妹と二人で、ただ懸命に羽ばたいていた。すぐに先輩達も後を追ってきてくれたが、みんな非常に早く飛ぶのですぐについていけなくなり、それでも必至に仲間に加わろうとしたが、離されるばかりであった。
そうこうしているうちに、俺は疲れきってしまったので、鳩舎の屋根に降りて休もうと思った。だが、先輩達のようにうまく降りられないので、近くの高い屋根に一度降りてそこから鳩舎の屋根にいくことにした。
やっとの思いでたどり着き、ほっとしてあたりを見回すと、ふと妹のいないことに気づいた。俺はもう飛び立つ勇気がなくなってしまったので、先輩達に探してもらう事にしたが、近くにはもういなかった。
三ヶ月くらい経つと俺はもうすっかりなれ、先輩達と一緒に毎日大空を気持ち良く舎外運動していた。
そんなある日、俺は主人と一緒に、俺の親のいる大田鳩舎へ連れて行かれた。
俺は三番仔らしく、一番仔や、二番仔の兄妹達が、100Kや200Kの短距離で全部失踪してしまったらしく、「こんな配合は駄目だから仮母にしてしまう。」と聞かされ、悔しくてたまらなかった。その話しを聞いて、俺は俄然やる気になった。
俺がレースに出て、兄や姉の分も頑張り、絶対に優勝して見せるぞ!!−−
そんな俺の気持ちが解るかの様に、主人は今まで以上に俺に期待し、大事にしてくれた。
いよいよ始めてのレースである。俺は年がまだ若いので主人の所属する支部のスタートには間に合わないのでそれより二週間おそいスタートの近所の連合会に、太田鳩舎の一羽と共に参加することになった。
俺は佐和という所から、一千二百羽位の仲間と一斉に放鳩された。なかなか方向判定がつかず、途中何度も途を迷いながらも一生懸命飛び続け、主人の待つ鳩舎へと急いだ。一時間半位飛び続けると、常も舎外で見なれた景色が目に写ってきた。そのはるか向かうに俺の鳩舎が見えてきた。スピードを上げ、鳩舎の上にさしかかった。そこで二、三回せん回して降り、トラップをくぐり、一気に水を飲んだ。やっぱり主人は俺を待っていてくれた。だが俺の足についているゴム輪をとってくれ様とはしなかった。得意になっていたのに、少々不機嫌になってしまった。でも、主人は、普段より余計に麻の実や小粒のエサをくれたので、すぐに忘れてしまった。いささかげんきんな俺であった。
次の二百K・三百Kレースもやはり同じであった。どうやら俺は、六百Kレースに期待されているらしい。
目標の六百Kレースは失格
いよいよ期待されている六百Kレースの当日になった。俺は、太田鳩舎の本命鳩と他の八羽位の仲間と一つの篭に入れられ、放鳩地である野辺地に送られた。俺は主人の期待に答えようと思うと、放鳩篭の中でただじっとしてはいられなかった。そんな心の動揺を押さえ様と思い、太田鳩舎の鳩と互いに主人の話しをした。どうも俺の主人は、太田氏に色々鳩の事を教えてもらったらしく、レース成績の方も劣っている様である。そんな事をあまりにも自慢げに話すものだから、落ち着かすはずの気持ちが反対に高まるばかりであった「翌々朝、六時半、一斉に放鳩篭のふたが開けられた。俺と太田氏の鳩はすぐにはぐれてしまった。八百羽程の仲間と上空をせん回し、我が鳩舎に向かうべく方向判定を急いだ。天気はあまり良くない。雲は厚くどんよりして、雨の降りそうな気配さえ感じた。が俺は、二、三回せん回しただけで、十五、六羽の仲間と北へ向かった。どうやら先頭集団らしい。その中には、さっきはぐれたはずの太田氏の鳩も一緒であった。何とかこの鳩に負けたくないと必至であった。茨城の上空にさしかかる頃にはもうこの集団は七、八羽に減っていた。俺自身もかろうじてついているような状態であった。しかし、俺は負けまいと心に言い聞かせながら百K位飛び続けた。すると遠くに我が鳩舎が見えてきた。俺は最後の力を振りしぼって全力疾走した。やっとの事で鳩舎にたどり着くと、主人が待っていてくれ、水を飲む間もなく素早く俺のゴム輪をはずしてくれた。あまり急いでゴム輪をとったので脚の毛も少し抜けて痛かった。その後で、俺の主人は大変満足げに俺を見つめ、「やっぱり速く来てくれたな!」と言って喜んでくれた。
やっぱり俺は速かった。そのレースは非常に帰りが悪く、当日記録された鳩は、わずか十七羽であった。俺はどうやら太田鳩舎の鳩よりも速く三、四位位であった。
ところが、俺の脚環太田氏の鳩の脚環は、日本伝書鳩登録で、俺が参加したのは日本レース鶏協会主催のレースであったので、審査が終わるとすぐに失格にされてしまった。俺も主人もがっくりして力が抜けてしまった。でも主人は、すぐに「二来週後の五百Kれーすは、伝書鳩協会の主催であるからそれに参加させてあげるから頑張るように」と力づけてくれ、翌日からすぐに特訓が行われた。
始めての配偶鳩
俺は、五百Kレースの一週間前に大変きれいな鳩(後に五百K・七百K記録し、ユートピア号と命名)を好きになってしまった。主人も俺に賛成してくれ、俺達に巣箱をプレゼントしてくれた。俺達はその巣箱の中を朝から晩まで、出たり入ったり楽しく過ごしていた。そのうちに妻は子供が出来たらしく、俺にわらを探してくるように頼んだ。俺は、鳩舎の中の羽根やわらを集め、巣箱の中へ運んだ。しかしまだ出来上がらないうちに、俺は他の仲間達とレースに持って行かれてしまった。妻が心配でレースに参加したくなかったが、篭に入れられてしまい放鳩地の盛岡という所に送られた。
盛岡に着いて翌朝、水、エサを与えられ、すぐに放鳩された。俺は妻のことを思い急いで鳩舎のある南の空へと飛んでいった。結果はまずまずで、三位であった。。
それから一週間程して、二個の卵が生まれた。三日位抱くと、主人はまた俺をレースに参加させた。今度は六百K野辺地という所であった。十月○日午前六時、一斉に離された。ここは前に一度飛んだことのある場所なのですぐに方向判定もつき、簡単であった。途中も何度となく通ったことのあるコースを飛んだ。空は青く澄んでいて、気持ち良く快適に飛ばした。七時間五十分、俺は鳩舎の上空にさしかかり、急いでおりて巣箱の中に飛び込んだ。そこには驚いたことに、レースに出される前にあった卵が二個共なくなっていた。俺はひどくガッカリした。レース成績の方はどうやら「優勝」であったが、今の俺にはどうでもよかった。(その卵が後に、千Kレースにおいて一位になったM若大将号)種鳩と呼ばれる鳩達は、レースに参加させられず、常も子供を育てていられ楽しく暮らしている。そんな仲間を見るとうらやましくてたまらなくなり、レース鳩としての孤独感をこの時ほど感じた事はなっかった。
若大将と命名される
正月も過ぎ、春の気配が感じられる頃となった。俺は相変わらずレースに参加させられ、百K二位、二百K二千羽中総合五位といったように、常に先頭集団に加わっていた。春季レースも、百K十位、二百K二十二位、三百K当日記録、五百K十三位と順調に帰った。いよいよ六百Kレースになった。もちろん俺も参加していた。相変わらず、放鳩地は野辺地であった。主人は俺を期待していたらしく、俺に賞金をかけていた。そして俺をマークしてくれた。そのマークされた仲間達で一番早く帰ってきた者が、その賞金をもらえることになっている。勿論俺は絶好調で他の鳩に勝つ自信もあった。それに飛びなれた六百K野辺地でもある。
昭和四十一年四月十五日午前六時、放鳩された。天気もよく快晴であった。この頃になると。こういう天気の良い分速レースには、俺自身絶対の自信があった。案の定俺のペースであった。二、三回旋回するや否やすぐに方向判定がついた。もうこの辺の地形は見なれたものなので、太平洋岸の海岸淵を低く飛んでいった。やがて、松島、富岡、東海と放鳩コースである上空にさしかかった。この頃になると、一緒にいた仲間も、一羽、二羽とだんだん姿を消していた。どうやら俺の独走体制らしかった。とうとう自鳩舎の到着台についた。主人は早速俺を呼び込み、入舎するやいなや俺を乱暴につかみすぐにゴム輪をはずし記録した。所要時間八時間十五分二十秒。分速一一七九.八三五mという成績で優勝できた。
これで俺は、六百K、二シーズン連続優勝という記録を作り、鼻高々であった.
俺はこの時、若き大将の意で若大将号と名付けられた。
ところが一週間もたたないうちに今度は、七百K地区ナショナルレースという非常に大羽数が参加するレースに出されてしまった。このレースは悪天候で、ましてはじめての海越レースであった。俺はこの時ばかりは何度も他鳩舎の屋根に降りてエサをもらおうと思った。が、俺の帰りを待つ主人の事を考えると頑張らずにはいられなかった。二日目の夕刻、やっとの思いで鳩舎にたどりついた。そんな俺の気持ちとは別に、主人は待っていてくれなかった。あげくのはてに俺の巣箱は、他の鳩に取られてしまった。俺はヤツアタリにその鳩と大変なけんまくでけんかを始めた。余りにもはげしい音を立ててしまったので、主人が驚いて鳩舎に上がって来た。
主人は俺を見つけると「やっぱり帰って来た」と言ってその鳩を篭に入れ、俺にはエサをたっぷりとくれ感待してくれた。どうやら主人は、少し前まで俺を待っていてくれたらしかったが、もううす暗くなっていたので今日は諦めて下へ降りていったらしい。そんなに一生懸命待っていてくれたのかと思うと嬉しくて、疲れが一度に吹き飛んでしまった。この悪天レースでは四位、俺としてはいささか不本意な成績でこの今春のレースは中止した。
「六百K 三回連続優勝なるか?」
夏の暑い日々も終わり、いよいよ秋季レースのスタートになった。この頃になると、俺はもう若鳩のように三十K、七十Kという様な近距離からの放鳩訓練はやらずに、いきなり百Kからスタートした。それでも百Kは八位といった具合に、もう飛びなれた距離だし、短距離も結構好きな方なので入賞程度なら常時出来た。
二百K、三百Kと順調に終わり、いよいよ六百K野辺地であった。この放鳩地は、俺の最も得意とする所なので絶対の自信があった。勿論主人も”三回連続優勝”を願い、自信を持って俺を参加させてくれた。ところが油断した由ではないのだが、いくら急いでもスピードが上がらず、急げば急ぐ程疲れの方が増してきた。仕方なく俺はマイペースで飛び続けた。結果は九位と三回優勝は達成できなかった。主人は優勝出来なかった俺を見て、敗因は舎外にあったのではないかと推測していた。前回の優勝の時は、百K、二百K、三百K、五百K、六百Kというように常に俺は毎回参加していた。でも今回は、三百Kから六百Kにジャンプしてレースに出た。この四週間の間があったが、普通の舎外だけだったので俺自身も今考えてみると、少し重くなっていたような気がした。主人は俺を見て、勝とうと思ったら一回か二回くらい、三十K、四十K程の訓練をしておけば良かったと悔しがっていた。
俺はもともと連投で使われた方が調子が良い方だし、現にに今までレースというレースにはほとんど参加していたし、まして中間レースにも出されても結構上位に入賞していた。
そんな事を裏付けるかのように正月の中間レースが始まった。結果は百K二位、百五十K四位、と上位グループにはいれた。この頃になると、俺は短距離であったら必ずといってよい程第一集団になって、いち早く鳩舎に帰っていた。しかし、鳩舎に入るやいなやすぐに捕まえられるのが嫌で、いつも鳩舎の屋根でしばらく休んでから入舎していた。その為かどうか解らないが、百K、二百Kの短距離では優勝が一度も取れなかった。
千K当日プリンス自動車獲得
二度目の春季レースが始まった。相変わらず百K、二百K、三百K、五百K、六百Kとレースは進んでいった。いよいよ七百Kレースである。どうもこの七百Kというのは苦手で、去年のレースも2日目の夕刻帰りといったような調子である。俺はどんな悪天レースでも、この二年間の間当日には必ず帰っていたのだが、まったく不名誉な記録を作ってしまったのである。この失敗を二度と繰り返すまいと、今度の七百Kでは俺も主人も大変な張り気でようであった。結果は翌日の朝早く帰ってくる事が出来た。早朝帰っていた事が幸か不幸か、今度は大変なレースに参加させられる事になってしまった。参加するにあたって主人は、非常に悩んでいた。この頃、俺の一番仔(M若大将号千K一位)がすでに二百K二位、悪天の五百Kで十六位、七百k記録というように、俺の種場ととしての能力も高く評価され、俺自身も六百K二回優勝、七百K二回記録というように飛翔していたので、千Kレースに参加させようか種鳩にしようかと迷っていたらしい。
主人は今シーズンの俺の百K〜七百K間でのコンスタントな成績を見て、全滅レースでない限り帰って来るだろうと絶対の自信を持って参加させることに決めた。
俺はレース当日に合わせて、メス鳩をつけられた。そのメス鳩は非常に綺麗で優しく、一目で気に入ってしまった。それからというもの、俺はそのメス鳩のことばかり考えていた。そんな毎日が二週間位続くと、そのメス鳩との間に一個の卵(後にエリート若大将号)が生まれた。その卵と三日位抱卵していると、いよいよ千Kレースに参加させられてしまった。俺はこの時程レースに出されるのが嫌だと思った事はなかった。そして翌日、羽田空港から羽幌という見知らぬ所へ送られてしまった。機内で俺はただメス鳩や卵が気になって、早く鳩舎に帰る事だけを考え続けていた。翌日(昭和四十二年五月十六日)まだ夜が明けぬうちに放鳩者達のあわただしい声に起こされた。どうやら今朝放鳩されるらしく、東京と途中の気象連絡を取っていた。しばらくすると、俺達仲間の入れられた篭とその他の篭が東京方面へ向けて一つ一つ並べられた。そして、エサと水が与えられた。
俺は、鳩舎に残してきたメス鳩と子供の事が気になっって仕方なかった。
午前四時三十分、俺達一三八羽は一斉に放鳩された。俺はしめたと思った。なぜならば天候は俺の最も得意とする高曇りで、分速千百m〜千二百m位で勝負がつきそうな日よりであった。案の定、俺は快調に飛び続けた。三百K位飛ぶと俺の苦手としている大沼公園の上空にさしかかった。しかしここは三週間程前に放鳩された場所なので大丈夫であった。一路南に向かって飛んで行くと、じきに津軽海峡が見えてきた。ここは少しでも雨が降るとすぐに海が荒れ、雨が上がっても濃霧が発生するという大変難しい場所であった。幸い今日は天気が良く、向こうに本州の半島が見えた。俺は陸と陸との最短距離を海面すれすれに飛んで、一気に本州にたどり着いた。ここから俺は太平洋岸を南下して行った。しばらくすると四号国道と六号国道の分岐点である、宮城県岩沼の上空にさしかかった。ここで俺は、いつも天気が悪く見通しのきかない時は、六号線と海岸との間をジグザグに飛翔していくのであった。が今日は天気も良いし、鳩舎に妻、子供が居るのでいくらか早く直線コースでである四号線に沿って帰る事にした。このコースは、山という山はあまりなく丘と丘をくぐりぬけるといった感じである。この辺になると、一緒に放鳩された一三八羽の後鳩達はいくつもの集団に分かれて飛翔していた。どうやら俺はその中でも第一集団らしく、二、三羽の仲間と共に一路南に向かって飛び続けていた。途中ノドの乾いた者は下へ降りて水を飲み、空腹の者は道端や畑に落ちでいる穀物を拾っているのであった。俺は何度も、降りて休んでから帰ろうと思った。だが妻や子供の事を思うと、ただ早く帰りたい一心で飛び続けた。そうこうしているうちに、西の空に太陽が沈みかけてきた。と、はるかかなたに俺の鳩舎がかすかに見えてきた。なんだかおれの胸はジーンとしてあついものがこみ上げてきた。目の前が涙のせいかうるんでいた。急いで到着台に降り、我鳩舎のトラップをくぐった。まず水を飲み、巣箱に入った。と、どうした事か持ち寄りの日まで抱いていた卵がなくなってしまっていた。妻にこの事を聞くと、俺がレースに参加している間に主人が取ってしまったそうだ。この話しを聞いて、俺は体中の血が逆に流れる程激怒した。そんなやりとりをしている内に、空腹と疲労の為か、いくらか寝てしまったのである。
午後七時頃、激しく階段を昇ってくる音が聞こえた。俺の主人である。主人は俺の帰って来た事に間だ気がつかないらしく、鳩舎の中を見回していた。俺は卵の事で頭に来ていたので、一番上の巣箱の中で知らぬふりをしていた。すると主人は俺を見つけたらしく、ビックリした顔で俺を捕まえた。主人は俺を捕まえてもまだ信じられないらしく、今度は明るい所へ連れて行き俺の脚環番号を確かめた.やっと信じたらしく,自分の部屋に戻って鳩時計を取ってきた。そして、脚からゴム輪をむしりとって時計に記録した。(午後七時六分五十六秒)
主人は俺を見て「やはり当日帰って来てくれたか」と、まだ驚きと興奮がさめない様子で見つめていた。それもそのはずで、千k当日帰りというのは、過去に三回(一九五八年、一九五九年、一九六一年)しかなく、今回は六年振りの当日帰りであった。そしてこのレースは、プリンスレースというレースで、日本で一番速い分速で帰ってきた鳩舎にプリンス自動車が贈られるのであった。主人は俺を連れて審査所へ行き、時計を開函した。そこには大勢の鳩飼いが集まり、篭の外から俺をじろじろ見ていろいろ話し合っていた。俺はもう疲れてクタクタなのこんな場所に連れて来られ,一生懸命早く帰ってきた代償がこんな事かと思うと、主人を憎まずにはいられなかった。俺にはどうでも良かった事であるが、レース結果は千K当日全国総合優勝であり、プリンス自動車と羽幌最高分速賞という大カップが主人に贈られた。それ以来、俺のレース鳩としての生活は終わってしまったのである。狭い巣箱にメス鳩と共に入れられ唯、卵を生んで子供を育てる事だけをまかせられてしまったのである。そして俺はすぐに妻と離れて故郷である太田鳩舎に移されてしまった。種鳩としての毎日が過ぎて十一月の初め頃、やっと俺の主人が迎えに来てくれた。俺はまた、以前のように大空を自由に飛べるのかと思い喜んでいたが、やはり狭い小屋に入れられ新しいメス鳩(岩田四五六号)をつけられてしまった。大空を見上げるたびに、その狭い巣箱の中で俺は。翼を広げて大空を飛びまわった選手時代の日々を思い出すのであった。
昭和四十三年の六月になった頃である。俺はメス鳩と分離させられ、以前の選手鳩鳩舎に入れられたのである。
もう俺がいた頃の仲間はだいぶいなくなり、見慣れない顔の若鳩がたくさんいた。でも俺は、また大空を自由に飛べるのかと思うとただむしょうに嬉しくてたまらなかった。
いつもの様に朝早く舎外が始まった。俺は三十羽位の仲間たちと一緒に勢いよく外へ飛び出し、久しぶりの大空を自由に飛びまわった。まだ若い鳩達は高く上ったかと思うと急に下がってきたりして遊んでいた。俺も久し振りの舎外だったので、調子に乗ってその若鳩達と一緒に急降下した時である。その下には何本もの電線がはりめぐらされていた。前の鳩はかろうじてよけられたのであったが、俺はあいにく後ろの方を飛んでいたのと、カンがだいぶ鈍っていたのでその電線にまともにぶつかって下に落ちてしまったのである。俺はぶつかったショックと痛みで、もう歩く事も声を出す事も出来ず冷たい地面に倒れ、俺のレース鳩としての生活は終わってしまったのである。
振返ってみると、俺の一生はレースにあけくれ毎日つらい事の連続であった。一日として体の休まる日はなく鍛えぬかれ、ただひたすら放鳩地に連れて行かれ、離され、急いで帰って来てはまた放鳩地に持っていかれるといった人生であった。
しかし俺は、レース鳩としての運命を精一杯生きて来たつもりであるし、誇りにも思っている。俺の子孫もまた、レース鳩の指名を立派に受け継いで、俺以上の成績を上げ、後世永久に“若大将系”の名を恥じることなく鳩界史に残してくれるだろう事を祈る。
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